学年合唱の有用性

没個性的合唱か個性的合唱か


学級合唱の拡張概念
 中学校における学級単位の合唱の延長線上として想定されるのが「学年合唱」であり,合唱祭でも定番の四字熟語として(あまね)く浸透している。この「学年合唱の持つ意義」については,筆者の研究テーマの中でも特に重要視しているものなのだが,様々な中学校の合唱に触れていく中で,漸進的(ぜんしんてき)ではあるがその意義について明らかになってきた。そもそもなぜ,学年合唱をするのだろうか。なぜ合唱祭において,学級合唱に加えて学年合唱も行うのが通例になっているのだろうか。実は学年合唱には学級合唱同様,意味深長な意義が隠匿(いんとく)されていたのだ。本稿ではそれを論証する。

各務原市立那加第一小学校4年生の合唱「空と風のきっぷ」

 そもそも「学年合唱」という言葉が用いられる経緯は,「学級合唱」とその延長線上として必然的に発生する学年単位の合唱という2種類の合唱形態を峻別(しゅんべつ)しなければならないという便宜上の理由によるものである。したがって,原則的に学級単位の合唱を披露することがない小学校においては「学級合唱」という言葉が用いられることもなければ,「学年合唱」という言葉が用いられることもない。小学校においては学年単位で合唱を披露するのが通例であるため,そもそも両者を峻別する必要がなく,小学校の合唱と言えば一般に学年単位の合唱(事実上の「学年合唱」)のことであるという不文律があるからである。
 ただし,実際の中学校の合唱祭においては,「学年合唱」に比べて「学級合唱」という言葉が用いられることは(まれ)である。司会者も「次は1年1組の発表です。1年1組の皆さんは,準備をお願いします」「1年1組 曲目『Let's search for Tomorrow』,指揮 ○○○○さん,伴奏 ○○○○さん,それでは1年1組の皆さん,お願いします」といった具合にアナウンスするのが一般的で,「学級合唱」という言葉を用いなくても学級名を挙げるだけで事足りているようである。
 逆に,「学年合唱」という言葉は積極的に用いられている。合唱祭においても「次は1年生の学年合唱です。1年生の皆さんは,ステージに登壇してください」「1年生学年合唱 曲目『Let's search for Tomorrow』,指揮 ○○○○さん,伴奏 ○○○○さん,それでは1年生の皆さん,お願いします」といった具合にアナウンスされている。

 なお,学年単位の合唱の延長線上として「全校合唱」が想定されるが,全校合唱という言葉に関しては中学校はもちろん,小学校においてもごく一般的に用いられていることを付記しておく。


学級は違うけれど…
 中学校の合唱祭において中核を担うのはやはり学級合唱だろう。合唱祭は,学年ごとに1〜3位の学級を選出するコンクールも兼ねて開催する学校もある。とりわけ1学年4学級以上の規模の中学校ほどその傾向が強い。外部から音楽の専門家を審査員として招聘(しょうへい)するところもあり(現職の小・中学校長,教頭が多いが,校長OB,教育委員会指導主事,高等学校教諭,大学教授,声楽家,岐阜県合唱連盟会長等のケースもあった),各学年上位の学級を選出し,顕彰するのである。
 もちろん,1学年1学級しかない小規模な中学校ではこのようなコンクールは行えない。「学級合唱=学年合唱」となるわけだ。だからといって,金賞(仮称)という目標がないために常日頃の合唱練習に精励せず,本番の合唱も質の低いものなのかと言えば,必ずしもそうではない。むしろ,そのような小規模校ほど仲間との絆が深いためか,感動的な合唱を披露してくれるものである。
 もっとも,岐阜県の中学校における合唱祭は,相対的な順位を決めるコンクールとしての性格というよりはむしろ合唱を通してお互いの学級と交流するということに主眼が置かれている(他県の合唱祭と比較してもその傾向が強く,岐阜県の特徴でもある)。そうした合唱祭の位置付けは,学級合唱に加え,順位を決めない学年合唱も積極的に実施している点や,そもそも行事の名称が「合唱コンクール」ではない中学校が圧倒的に多い点からもうかがえる。以上のことから,賞を獲得することが合唱祭の一義的な目的としては位置付けられていないことを強調しておく。

表彰の様子

 このように,学級合唱は合唱祭の中核であり,学級合唱のない合唱祭はあり得ない。ではなぜ,学級合唱に加えてわざわざ学年合唱も行うのだろうか。単に余った時間の穴埋めに過ぎないのだろうか。それとも,人数の多さを利用して聴衆を圧倒させるパフォーマンスに過ぎないのだろうか。

 学年合唱には,各学級で深めた絆や団結力を結集し,今度は学年としてのまとまり,一体感を合唱という手段を活用して「これが我ら○年生だ」と顕示させるねらいがあると考えている。加えて,学級こそ異なるものの,一緒に入学した同期生として,同じ学び舎で青春の日々を共有しているという歴然たる事実(中学生らにとっては,当たり前すぎるとも言えるこの客観的事実を改めて認識することはないかも知れないが)を踏まえた上で「やっぱり自分達は仲間なんだ」ということを再確認させることで,同じ学年の他学級の生徒に対する仲間意識を涵養(かんよう)させるねらいもあると考えている。
 さらに,1学年に複数の学級がある学校の場合,進級して学級が再編制された際に「○○さんと同じ学級になるのは初めてだけど仲良くなれるかな」と入学してから一度も言葉を交わしたことのない仲間と同じ学級になって不安を抱いたとしても,どの仲間とも過年度に学年合唱を通して同じ時間を共有したという共通点を認識させることによって,そのような仲間に対して親近感を持たせるねらいもあると考えている。そして,「一緒に学年合唱した仲間なんだから,今度は同じ学級の仲間としてさらに絆を深めよう」という意志を持たせることによって円滑に新年度をスタートできる効果もあると考えている。
 ただし,このようなことを中学生に対して自発的に認識させることは難しい。そこで新年度の学級開きに際し,各学級担任が「君達はこれまでに学年合唱を通して絆を深めており,すでに“仲間”なんだ」という話をすることできっかけを与え,生徒らの不安を払拭するよう努めることが不可欠となるだろう。


新型インフルエンザの爪痕 新型インフルエンザが蔓延した2009年は,各学校や文化施設の入り口にインフルエンザ対策のリナパス(アルコール消毒液)が設置され,マスクの着用が徹底された。写真は高山市民文化会館に設置されていたもの。
 学校によっては時間の都合上,合唱祭で学年合唱を省略するところもある(割愛すると申し上げるほうがより正確かも知れない)。1学年7学級以上の大規模な中学校や,1学級で課題曲と自由曲の2曲の学級合唱をする中学校ほどその傾向が強い。
 また,3年生だけは学年合唱をするという中学校もある。時間的な制約はあるが,せめて3年生だけでも…という職員側の気配り,すなわち“温動(おんどう)(「恒温動物」の略ではなく,「温かい行動」という意味)なのだろう。3年生が選ばれる理由は,恐らく中学校生活最後の合唱祭だからという点と,最上級生として後輩の模範となり,憧憬(しょうけい)を抱いてもらえるような合唱を1,2年生に1曲でも多く聴かせたいという点が背景にあると考えられる。また,卒業アルバム用の写真が必要だからという裏事情もあるのだろう。

関市立緑ケ丘中学校1年生の学年合唱「地球の詩」  ちなみに1年生だけや2年生だけが学年合唱をする中学校には未だ遭遇したことがない。ただ,関市では毎年11月に,市内の中学生が集う連合音楽会が開催されるが,2009年は新型インフルエンザの影響で中止を余儀なくされた。翌年1月に関市文化会館において同市立緑ケ丘中学校の合唱発表会が開催されたので足を運んだが,その際,3年生に加えて1年生も,本来は連合音楽会で合唱するために練習していた学年合唱を,代わりに合唱発表会で披露した。2年生だけは披露しなかったという稀有(けう)なケースだ。
 以下に,その1年生の学年合唱「地球の詩」に先立って行われたスピーチの全文を載録する。日常生活で得た成果を,今度は学年合唱を通じて表現することで,連合音楽会の代わりに与えられた貴重な機会を最大限に活かそうという決意が伝わる。

 1年生は10月から連合音楽会に向けて練習してきました。しかし,インフルエンザの影響でその音楽会に出ることができなくなりました。だから,今日このような場で発表できることを,大変うれしく思っています。 さて,僕たちは今までの生活の中で「時間を意識して行動する」「服装を正す」というこの2つが成果として出てきました。だから,この学年合唱でもこのようなけじめのある姿を大切にしていこうと取り組んできました。 初めは姿勢の悪い人や,声を出さない人が多くいて,思うように進めることはできませんでした。しかし,学級委員や文化委員,パートリーダーを中心として呼びかけをするようになり,今ではとてもきれいな合唱が歌えるようになりました。 1年生の合唱は,男女のハーモニーの重なりや,盛り上がりへ向かうところの強弱など,細かいところまで真剣に練習してきました。初めての発表ですが,1年生らしく,元気のある大きな声で歌います。聴いてください。


 また,2009年11月に安八町中央公民館において開催された大垣市・安八郡安八町中学校組合立東安中学校の文化祭では,1年生と2年生はそれぞれ学年合唱を披露したものの,3年生だけは披露しなかったというケースに遭遇した。3年生は新型インフルエンザの影響で学級閉鎖が相次いだため,3年生全学級が集まって学年合唱の練習をする時間が確保できなかったからだそうである。


組合立中学校の展望 大垣市・安八郡安八町中学校組合立東安中学校2年生の学年合唱「明日の空にはばたける翼を」
 岐阜県には東安中学校を含め,組合立の中学校が3校現存する。平成の大合併において,安八郡安八町は大垣市に編入するか注目されたが,単独行政の道を選択した。同郡に属していた墨俣町(すのまたちょう)が,飛び地でありながら大垣市に編入されたため,「安八郡中学校組合立東安中学校」から現在の校名に改称されたという経緯がある。仮に将来,安八町が大垣市に編入されれば組合立は解消され,「大垣市立東安中学校」となるだろう。そもそも大垣市は,もともとは安八郡だったのだ。
 ちなみに現在の大垣市中心部は,1919(大正8)年まで安八郡大垣町であったことも付記しておく。
 あるいは仮に,可能性は低いが将来,同校の生徒数が激増し,学校分離が決まった場合,両校の校区の境界が大垣市と安八町の境界線を用いて定められたとしよう。そうすると,分離する側は「安八町立東安中学校」となり,分離される側は「大垣市立墨俣中学校」(仮称)となるだろう。

 ところで墨俣と言えば,墨俣一夜城が有名だ。1566(永禄9)年,木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜で仕上げた城とされるが,その真偽は不明である。現在の墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)は1991(平成3)年に建築された。外観は大垣城がモデルとなっており,屋根の上には純金を用いた金の(しゃちほこ)燦然(さんぜん)と輝く。筆者もかつて訪れたことがあるが,桜の名所でもあるこの城とその周辺には,約1000本のソメイヨシノが咲き乱れる。

墨俣一夜城 (2011年4月撮影)  近年,岐阜県の中学校で学校分離が行われた例は筆者の知る範囲ではないが(むしろ統廃合の話をよく耳にする),将来,どこかの中学校でそういう事態が起こるかも知れない。例えば高層マンションが林立するベッドタウンが開発されたとしよう。新婚夫婦が一斉に入居した場合,生まれる子供が成長して中学生になるのは約15年後だ。その頃には校区の中学校の生徒数は急増するに違いない。
 実は筆者の住む地域にある中学校では,それに近い現象がすでに起きている。急増とまでは言わないものの,逓増(ていぞう)している。約15年前に出現した高層マンションに加え,急速に進められた宅地開発,さらには下水道の整備も要因ではないかと考えている。全国的に少子化しているのにもかかわらず,生徒数が増えているということは,当該地区の出身でない者とその子供が増えたということなのだろう。すなわち転入率の高い地区ということだ。

 ところで1980年代に学校分離を機に組合立が解消された例が岐阜地区の中学校にあるが,これ以上掘り下げると本論から脱線してしまうため(すでに脱線しているかも知れないが),ここでは詳説しないことにするが,ご要望があればぜひ紹介したい。


「没個性的合唱」か,「個性的合唱」か 可児市立蘇南中学校1年生の学年合唱「そのままの君で」。全8学級,総勢約300名の大合唱。同校は,岐阜県下の中学校の中では生徒数が最多。
 さて,本論に戻ろう。学級合唱に比べて学年合唱は人数が多くなるわけだが,人数が増えれば増えるほど個々人が大人数に埋没してしまいがちである(筆者が学年合唱を鑑賞する際は,なるべく全員の表情を見るように努めているが,やはり一人の表情を見るのに費やせる時間は限定的だ)
 合唱は,各パートのバランスのとれた調和(ハーモニー)が重視されるのは言うまでもない。したがって一方では,合唱においては一人ひとりの個性というものがある程度抑制された「没個性的な合唱」というものが要求される。すなわち,数人だけ突出して過度に大きな声を出したり,体を極端に左右に揺らしてリズムをとったりする積極的個性を発露したり(いわゆる「目立ちたがり屋」),逆に数人だけ全く声を出さなかったり,指揮者に注目せずにうつむいたり,服装が乱れていたりする消極的個性を発露したり(いわゆる「恥ずかしがり屋」)していては調和が損なわれてしまい,一体感のある合唱とは言えないということだ。
 また他方では,合唱においては一人ひとりの個性を尊重した「個性的な合唱」というものが要求される。これは前述の「没個性的な合唱」とは対極的な概念ではある。
 それでは,「没個性的合唱」説と「個性的合唱」説のどちらを私が支持しているのか,という疑問をお持ちになられたことだろう。結論を申し上げれば,どちらか一方を積極的に支持しているわけではなく,両説を相互に妥協させた折衷説,すなわち「第3の説」を提唱したい。要するに,全体の調和を乱さない範囲での個性のアピールは必要である,というのが私の主張の核心だ。


克己心で打破する羞恥心 大垣市立星和中学校2年生の学年合唱「翼をください」。同校では岐阜県下の中学校の中では珍しく6月に合唱コンクールを行っていたが,現在は11月に開催している。
 多くの中学生は,中学校を卒業すると高等学校へ進学するであろう。大半の高校では入学試験の中で面接試験を課しているが,この面接において受験生は面接官に自分の顔を売らなければならない。いわゆる「自己アピール」である。
 合唱においても同様だ。とりわけ学年合唱では,大人数に埋没しようとしてはいけない。人数が多いと聴衆から個々人に注がれる視線は分散されるため,合唱する側にとっては緊張が幾分和らぐはずである(ただし,気の緩んだ弛緩状態になってはいけない。適度な緊張感を保つことは肝要だ)。これは,大勢の仲間に囲まれながら合唱するからこそもたらされる安堵感や幸福感によるものである。このような仲間の温かさを,繊細な思春期の心で敏感に感じ取ることにより,「仲間っていいな」,「合唱って案外楽しいものなんだな」ということを実感した上で,仲間がいるからこそできる合唱の素晴らしさに気付くことができるのである。
 だからこそ,学年合唱では自分の個性をアピールする絶好のチャンスなのだ。例えば普段恥ずかしくてなかなかできない大きな口で合唱してみたり,普段は合唱に対する無関心を装った暗い表情で合唱していた人が,学年合唱では合唱の楽しさが伝わるようないきいきとした表情で合唱することで「実は合唱が大好きなんだ」という潜在的な想いをアピールしてみたりするのである。この程度の個性のアピールであれば,全体の調和を乱すこともなく,一体感が保たれるはずである。

 羞恥心(しゅうちしん)に打ち克てなくてなかなか殻を破れずにいる中学生も多いだろうが,それを超克してこそ,人間的に大きく成長できるはずである。中学生の諸君には,ぜひ羞恥心を打破する克己心(こっきしん)を持って合唱に取り組んでほしい。もちろんこのような「挑戦」は,学年合唱のみならず学級合唱においても実践してほしいのが本音ではあるが…。


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【最終更新】2015年3月11日