合唱美的価値論

“自立”は一体感を生むか


「合唱」と「歌」の違い
 合唱は,全員が心をひとつにすることで得られる一体感を味わうことができるという点において有意義な活動であるということは,「学級合唱の有用性」の中ですでに説いた。ここでは,その「一体感」についてさらに詳しく掘り下げたい。

 さて,かつて私が合唱を鑑賞したH市立T中学校の1年生は「自立」という学年スローガンを掲げていた。合唱祭の学年合唱においても,「一人ひとりが自立して精一杯歌うことで,学年のハーモニーを創り出したい」と意気込みを語っていた。ではこの「自立」は,学年スローガンとしてふさわしいのだろうか。一人ひとりが「自立」すると,果たして一体感のある合唱が創出されるのだろうか。

 短絡を覚悟で申し上げれば,学年合唱において「一人ひとりが自立して歌うことで学年がひとつになる」というのは結果論に過ぎず,小学校高学年でもできることである。つまり,単に一人ひとりが同じ時に,同じ場所で,同じ曲を歌っていただけで,学年の仲間全員で「合わせよう」という意志を持っていなかったために,「合唱」ではなく単なる「歌」を歌っていたに過ぎなかったということである。一人ひとりが仲間の存在を意識せず,たとえ失敗があっても一切指摘し合わずに歌い続ければ,「合唱」の領域には到達しない。仲間とともに励ましい,支えって練習するからこそ「合唱」なのである。


本物の一体感=内面的な一体感 2009年11月,高山市内にて撮影
 自立した一人ひとりの存在によって生まれる学年の一体感というのは擬似的なものに過ぎない。外見のみにこだわるあまり,内容を伴わない虚飾された一体感を本物の一体感であると誤解しているだけである。

 例えば秋は紅葉のシーズンだが,特に山々が赤や橙色で彩られているのを眺めると美しいと感じる。しかし,一本一本の木はそれぞれ独立して存在しており,周囲の木々と協調しながら山全体の美しさを調整しているわけではない。単に一本一本の木が同じ時に,同じ場所で,同じように木の葉を色付かせた結果,山全体が美しく見えているだけである。我々が認識しているのは外見的な美(一体感)であり,木々が互いに緊密に連携し合う中で生み出す内面的な美(一体感)ではないはずである。

 合唱において本当に追求すべき一体感とは,決してそのような「外見的な一体感」ではない。全員が同じ制服を着て,同じ曲を歌ったからという理由だけで一体感を感じたと主張するのは短絡的である。(学年の)仲間全員が互いを意識し合いながら「合わせよう」という共通の志を持って合唱することによってこそ「ひとつになれた」という本物の一体感が味わえるのであり,そのような一体感こそが,合唱における美的価値の根拠となるのだ。例えば「ソプラノの中に美しい声の人がいたから美しい合唱だった」「我が子が一生懸命頑張って歌っていたから美しい合唱だった」というように,一部の人の功績だけを賛美して,それを「美しい合唱」と総合的に過大評価しないよう,留意する必要がある。 2009年11月,高山市内にて撮影

 「自立」という言葉には,個人が他者の影響を受けず,単独で存在する,という内容の意味を持っている。したがって,一人ひとりが仲間のことを意識しない「自立」を追求した合唱からは,仲間同士の一体感は生まれない。それは虚飾された一体感であり,本物の一体感ではないのだ。

 確かに「自立」は人間が成長する上で大切なことだが,多くの仲間とともに集団生活を送る学校というのは社会的な組織であり,「自立」を追求する場としてはおよそふさわしくないのではないか。むしろ家庭において追求すべき概念である。もう少し「仲間とともに励まし合い,支え合う」という意味を反映させた学年スローガンを採用する必要があったのではないだろうか。

 

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【最終更新】2013年1月25日